■ 浄土宗とは
浄土宗は、平安時代後半に法然上人によって開宗された大乗仏教の一つです。法然上人は平安時代末期に美作の国(現岡山県)で生まれました。父を亡くした9歳の時、菩提寺に母方のおじによって引き取られ、(母方のおじが僧侶でした。)そして正式な出家者になりました。 18歳の時、師の源光と叡空から一文字ずつ取り、源空という名前が付けられました。正式な名前は法然房源空でした。 源空は、比叡山を拠点に仏教について深く学び、「いつでもどこでも南無阿弥陀仏を唱えれば、仏陀の救いを受けて平和な日々を過ごすことができます。」と貴族だけでなく、大衆にも他力の教えを広めました。 しかし、その教えは当時の仏教では新しく、苦難の日々が続いていました。周囲からの反発や抑圧を受けました。しかし、法然はこの教えを広めることをやめないことを決意し、やがて法然は日本中に広まり、皇室から一般大衆への仏様のお導きによって救われました。
■ お念仏
念仏を申せば往生ができるというのは、浄土教の教えである。本来、往生とは死んで生身のこの姿・形がなくなるということである。姿・形がなくなれば、五官が働かないので、寒さなく暑さなく、悲喜なく、食欲なく、飢餓なく、貧富、賢愚、男女の差別ない。死んでしまえば、誉められても罰を受けても、痛くもかゆくもない。すべては後の祭り、生前にどれ程念仏を申しても申さなくても、何の役にも立たない。それなのに、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申せという。それだから仏教は論理に合わない、時代後れの宗教であると非難される。
さて、わたしたちは、どうして何のために、生まれてきたのかがわからない。それは何故か。わたしたちは、他力で生かされているのに、自力で生きていると思っているからである。わたしたちが自力から他力でいかされていると、百八十度の転換をすると、このことがわかるのである。いつでも生かしている者、即ち、阿弥陀仏と一枚になって、すべてを阿弥陀仏に任せて、ただ念仏して生きてゆけば、すべての不安、不満がなくなり、ストレスが解消して、行住座臥が安泰になり、生かされているのが有難く、もったいなくて、少なくとも悪事などができなくなる。善人なおもて往生す、いわんや悪人をやという論理と同じであって、決して論理に合わない、時代遅れの宗教ではないのである。
また、臨終に念仏すれば阿弥陀仏が来迎するというが、これこそ荒唐無稽の戯言である。老生も生かされていると気がつくまでは、そのように思っていた。わたしたちが生かされていて、一生の間、これ程懸命に生きていたのに、臨終の時に、御苦労であったと一言のお礼もいわないような仏であれば、それは贋物である。本物であれば、必ず迎えに来て、お礼ぐらいはいうにちがいない。わたしたちが今ここに生かされているのが本当であるなら、生かしている阿弥陀仏も本当のものである。阿弥陀仏は、姿も形もないので、心眼でなければ見えないが必ず実在している。万有引力は、姿も形もないが、実在しているではないか。わたしたちを生かしている者、それは仏教では阿弥陀仏というのである。臨終に念仏すれば、阿弥陀仏は必ず来迎して下さるのである。