■ 開山 クリックで拡大できます。 孤峯山悟真寺の創立は、貞治五年(一三六六) で、開山は善忠寂上人である。善忠上人は浄土宗藤田派四代唱名上人の高弟、仏法を広めるため関東から三州今橋 (現在の豊橋)に来て奇瑞があってその地に一寺を建立し、浄業院悟真寺と称した。建立地は現在の吉田城三の丸辺りといわれる。毎年三月十五日に善導忌を勤め、あまねく道俗を教導し、京都に上って参内し、勅願寺の綸旨を受け、祈祷料として六十貫の寺領を賜った。 ■ 近世の隆盛 永正二年(一五〇五)牧野古白が今橋城築城の際、請われて現在の地に移転した。その後天正十八年城主池田輝政の時、城拡張のため花田町への移転の話が浮上したが、輝政姫路に転封となり中断された。慶長七年(一六〇二)家康から朱印八十石を受け、家康、秀忠、家光らが宿泊休息したと伝えられ、寛永十三年(一六三六)をはじめ数回朝鮮使節の宿所ともなった。元和年中に後水尾天皇に浜納豆を献上。「ひく汐に わたりかかれば 三河なる 浜名は落ちてここは八橋」の御製を賜り、後陽成院の六字名号、後水尾帝の二村山懐紙をも賜った。 クリックで拡大できます。 ■ 寺紋 悟真寺は寺紋として「葵の紋所」を使用。知恩院の直末となったのは、元和元年(一六一五)で広く宗門の名僧を求め住持とし、後に芝増上寺寮中の秀僧を招請する習慣となり明治維新まで続けられた。悟真寺の本尊は、恵心僧都源信最後の作と伝えられる開山年持仏弥陀三尊立像で、享保六年(一七二一) 新造の本尊阿弥陀如来坐像の胎内に収められている。 ■ 近代以後 第二次世界大戦中、赤坂(宝飯郡音羽町)の長福寺に疎開し、戦火を免れ現在の本尊として安置されている。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄六年)に、「寺地御城内、浄土宗、羽田村地内、孤峯山浄業山悟真寺、京都知恩院末寺、上人、客殿拾間九間、御朱印寺領八拾石目、塔頭 西岸院、龍興院、樹松院、善忠院、専称院、三昧院、全宗軒、法藏院、西禅院、東高院、勢至軒、浄招院、竹意軒、十三ヶ寺」とあり「三河国二葉松」(元文五年)に、「城内、吉田、寺領八十石、浄土宗鎭西派、開山善忠上人、本寺京都知恩院、院号浄業院 孤峯山悟真寺」とある。 慶応四年(一八六八)三河裁判所が置かれ、明治六年(一八七三)には小学校の校舎に使用された。明治十一年(一八七八) 明治天皇の行在所となった。昭和十一年(一九三六)国の史跡「明治天皇豊橋行在所」に指定されたが、同二十三年指定解除された。明治三十八年(一九〇五)日露戦争の捕虜収容所となった。昭和二十年(一九四五)六月空襲により全山焼失した。 昭和二十二年(一九四七) 仮本堂、同三十六年鉄筋コンクリートの本堂再建、同五十年書院庫裡が再建された。昭和二十三年(一九四八) 月影保育園を開設。昭和二十九年悟真寺幼稚園と改め、昭和六十年学校法人悟真寺幼稚園として認可、令和二年四月より幼保連携型認定こども園、悟真寺幼稚園に変更される。同年五月唐様山門再建される。